前ページへ

「匿 名」

 インターネットで睡眠薬、劇薬を売買するとか、「伝言サービス」で知り合い、薬を飲まされて死に至る事件が続いた。そしてその原因の一つに「匿名」が上げられている。メディアもこれらの事件の背景としてこの「匿名」を声高に指摘しているが、他人事のように問題視する資格がはたしてメディアにあるのか。メディアこそそれを助長しているとは言えないだろうか。

 Aさん、Bさんとか仮名にしたり、後ろ姿でおまけに音声を変え話を聞く、顔をぼかしてカメラに向かう等、列挙すれば限りない。テレビのその手の番組でプライバシーの名の下に殆ど終わりまでこれら「顔なし人間」「変声人間」のオンパレードというのもある。番組を続けて見ていると、ボケた映像で目がおかしくなるようなのもある。

 本人に語らせようという意図はわかるが、とびきりな重要証言というものは少ない。大抵はさもあろうというものばかり。丁寧な取材をすれば記者が整理して述べていいものが多い。リアリティをだそうというだけのものである。そこに個人の発言の責任とか個性があるのかと言いたい。

 匿名でならとか顔が映らなければとかの条件(本人からか局からかは知らないが)で出演する「顔なし人間」「変声人間」にはうんざりする。

よく新聞の投書欄に「匿名での投書は不採用」とあるが、取材する側はそうでないらしい。勝手な理屈ではないか。

 人間だれでも「匿名」という魅力には惹かれるものだ。無責任とか言うのではなく自分自身を含め、血縁的、社会的な多くの拘束からちょっぴり抜け出てみたい。特にまわりを気にして生きている日本人なら余計その願望を持っているだろう。その願望の強い人間を、インターネットとか「伝言サービス」が必要以上に社会からこれらの人々をはみ出させてしまった。社会の合理性、情報の速効性の手段であるインターネットが人間の心の「インターネット」になればこういう事件も起きてくる。

 住民の身近な情報は少なく、遠くの一次的には関係の薄い情報ばかり流し、また安直に「匿名」出演者を排出し続けるメディアも、こうした空虚な心を増幅させているのではないか。 2000.02.06

前ページへ