話は『旧約聖書』の「列王記・上」(3)にある。ソロモンを中央に配置しシンメトリックに当事者たちを描く。あくまでも中心はソロモンであり、ソロモンの叡智なのだ。当事者は脇役である。
事件はというと、2人の遊女が相前後して、それぞれ男児を産んだ。ところが一方の母親は子供に覆いかぶさって寝てしまった為に男児を死なせてしまう。それで他方の生きている男児を自分の子だと言い始め争いとなり、ソロモンは裁かねばならなくなったのだった。
ソロモン王は「剣を持ってこい」という。剣で男児を2つに裂いて、半分ずつ2人の女にわたしてやれ、という。ずいぶん考えられないような乱暴な裁定である。この絵にも今にも生きた子を引き裂こうとする剣を持った兵士と、死んだ子を抱えた女も描かれている。
一方の女は、ぜひとも半分ずつにしてほしい、という。他方の女は、それならば生きたまま相手の女にわたしてやってほしい、という。
そこで、ソロモンは判定を下す。「この子を殺してはならない。生かしたまま他方の女に与えよ。その女がこの子の母である」と。
これってどう解釈するか。場面構成は日本の大岡裁きと大差ない。しかし違うのはソロモンは真の親はどちらかという真実には関心はないということだ。剣で殺された子でもほしいという方と、生かしたままにしてほしいという方とでは、後者に子を渡せばいいことなのだ。合理的に裁定したのだ。
大岡の方は真実を追求したが、ソロモンは現実問題として処理したのである。当事者以外には真実が分からない問題をどう処理するか。洋の東西を問わず、また時代を通じて存在するが、西洋人と日本人の考え方の違いの一端を見たような気がする。あなたはどう思われますか?