躾(しつけ)
ホームへ

 ここ数年来、子供に対する親の虐待や子供同士のイジメなどの摘発数が驚くほど増加してきた。子供は親を選べない。全く不幸としか言いようがない。躾(しつけ)と称して親の意に沿わぬ我が子(義理も含め)に心理的肉体的に暴力をふるい、最悪死に至らしめる。本来「躾」とは人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること(Wikipedia)。
 幼児期にはそれを行うのは両親であったり祖父母であり、家庭教育ともいう。今はほとんど核家族で、じいちゃんばあちゃんの立場は薄い。学齢期になると学校がその一翼を担う。多少の強制力も必要となるが、それは社会的に許容される範囲かどうかであろう。それを逸脱すれば暴力であり法的制裁の対象となる。どちらかの判断はかなり難しいが、要するにこれから成長し、自分で社会的にも健全な判断ができるようになるまでの橋渡し役である。あくまでも子供の健やかな成長を願っての行動であるべきだ。決して親の勝手で行うものではない。
 かつては近隣の人たちも大きな役割を担っていた。こわいおじさんやおばさんがいたのである。反面教師もいた。社会も子供を育てたのだ。現在は親もそうした社会から隔絶されている。
 今、親や子供に最も影響を与えているものはスマホなどのソーシャルメディアである。最近の議論として、善悪両論だが、電車内や飲食店で子どもが泣いたり騒いだりしたとき、あやすためにスマホを差し出す母親の「スマホ育児」というのもある。しかし最も危険なのは「依存症」片時も離さないで自分に都合のいいものばかりを選択する。都合の悪いものは簡単にスルーできる。それがすべてである。スマホでは、生きた人間の存在感が希薄である。そこから子供は多くを学ばず「見てほしい」という目的だけの個人投稿の画面と向き合っているだけだ。バーチャルな世界と対面しているだけだ。これでは躾にならない。そういう安易な自己主張しか知らぬ子供たちが相手の心情を思いやらずイジメなどの問題や犯罪をを起こしやすいことは容易に想像がつく。社会的悪にたいしてブレーキがきかないのである。
 一昔前は子育てを含め家族問題などの処方は、窮屈ながらも親から子、子から孫へと代々家訓として継承されていた。今の若い世代はそうした経験の少ない世代の子や孫である。学習・経験のないことはわかるはずがない。
 今更、昔の回顧話など役に立たない。これからどうするかだ。現実問題として親も子育てには多くのストレスが伴う。そして孤立していく。周りの人たちも関わりたくないので見て見ぬふりをする。そして時として悲劇がおこる。最近聞かないが親業という言葉があった。親になるための学習である。誰かが教えなくてはならない。子も親も孤独から解放する術を学んで生き抜く力を自分のものにしてほしい。生きていくのは自分自身である。