「劣等感」

今回は、心理学者岸田秀著「不惑の雑考」より掲載します。

 劣等感のない人はいないと思うが、人間はなぜ劣等感をもつのであろうか。それは他者と自分とを比較するからである。ではなぜ人間は他者と自分を比較するのであろうか。

 他者と自分とを比較するのをやめれば、たちどころに劣等感なんかなくなってしまうであろうが、それがやめられないのはなぜであろうか。それは、人間にとって自分というもの(自我と呼んでもいいが)がそもそも他者との比較の上に成り立っており、他者がいないとすれば、自分も存在しなくなるからである。我々は自分が他者にとって何であるか--親にとって子であり、男(女)にとって女(男)であり、患者にとって医者であり、友人にとって友人であり、優者にとって劣者であり、劣者にとって優者であり、等々--ということによって、自分のアイデンティティを見いだし、世界の中における自分の位置を見定めることができるのであり、我々の存在は他者によって支えられているのである。

 他者の支えがなくなれば、我々の自我は空中分解する。したがって、劣等感に苦しんでいる者に、人のことなどどうだっていいではないか、人が自分より優れていようが劣っていようが気にすることはないではないか、自分は自分ではないか、自ら自分を省みてそれでいいと思えるなら、それでいいではないか、などと言ってみたところで、説得力はないであろう。

 しかし、上を見ればキリがなく、下を見ればキリがなく、自分より優れている者もいっぱいいるけれども、劣っている者もいっぱいいるわけで、それなら、いつも自分より劣っている者と自分を比較して優越感だけもっていればいいのに、我々はともすれば、自分より優れている者と自分を比較し、わざわざ苦しい劣等感にとらわれるのはなぜであろうか。自分より優れている他者とはいったい、誰であろうか。それは、実のところ、他者ではなくて自分なのである。自分だからこそ、気にしないでいることができないのである。自分といっても、それは、現在の現実の自分ではなく、幼かった遠い昔のナルチシズムの時代、天上天下唯我独尊の時代の全知全能の誇大妄想的な自分、幻想的な自分である。そのような幻想我と現実の自分とを比較するのだから、現実の自分が劣っているのは当然である。

 このナルチシズム時代の自分、つまり幻想我は今や失われているのであるが、我々はこの失われた自分を常に探し求めている。その全体を復元できないまでも、せめてその一部分、一要素なりと復元できないものかとつねづねウロウロ、ガツガツしている。しかし、現実の自分はあまりにもありふれていて、みすぼらしく、現実の自分においてそれを復元しようとするのは容易なことではない。そういうとき、それを一部分なりと復元しているかのように錯覚される他者を見いだすのである。そして劣等感に襲われる。そのときの他者とは、本来ならば自分が手に入れるべきものを横取りした奴であり、我々は対抗意識を燃やし、もし可能ならば彼を引きずりおろそうとするが、たいていの場合は不可能なので、劣等感を抱いて悶々とする。あるいは、彼をいやが上にも賛美し、彼の崇拝者として彼につながることによって、あたかも彼を自分の分身であるかのように感じ、彼と自分との距離を消すことによって劣等感から逃れることもある。

 こういう場合も、崇拝者は被崇拝者に対する敵意を心のどこかに秘めているものであって、それが表に現れれば、熱狂的なファンが憧れのスターに硫酸をひっかけたり、ピストルの弾をぶちこんだりする事件となる。被崇拝者も本来ならば崇拝者に属するべきものを横取りした奴であることには変わりはないからである。被崇拝者の崇拝すべき点が、崇拝者と関係のないものであれば、あるいは一般的に言えば、優者の優れている点が劣者と関係のないものであれば、賛美するはずもないし、羨ましがるはずもないし、劣等感を抱くはずもない。我々は自分が空を飛べないからといって、飛んでいる雀に劣等感はもたないし、桜の花が美しいからといって、桜に劣等感はもたない(世の中にはいろいろな人がいるので、雀や桜に劣等感をもつ人もいるかもしれないが)。

 劣等感は人間につきものみたいなものであるから、劣等感から決定的に解放される方法はないであろう。もしただ一つ、その方法があるとすれば、自分より優れている人たちを自分とは関係のない別の世界の人たちと見なして、あきらめることであろう。昔の庶民は貴族に対して別に劣等感はもっていなかったであろう。

 ところが、現代は平等主義の時代で、タテマエとしてはすべての人が平等に何にでもなれることになっているから、現代人は昔の人より劣等感に苦しんでいるのであろう。別に平等主義がいけないとは言わないが、人々の劣等感を大いに刺激し、増大させたことはまちがいない。また、大人と青年を比べてみると、青年は将来に希望をもち、いろいろな者になれる可能性をまだあきらめていないことが多いであろうから、大人よりも青年のほうが劣等感が一般に強いであろう。

 しかし、すべてにあきらめてしまって劣等感をもたなくなったら人間はやることがなくなるのではなかろうか。嫉妬は人間の最も強い感情であり、劣等感補償は人間行動の最大の動機である。人が言ったりしたりしていることの大半は、難しい複雑なことを考えなくても、嫉妬と劣等感補償が動機ではないかという仮説を立てれば明快に説明がつく。

 幼い時に話し方に障害があったが後に雄弁家になったとか、子供の時に小児麻痺で歩けなくて後にマラソン選手になったとかの話が劣等感く。補償の例によく出されるが、別に雄弁家やマラソン選手になることが価値のあることかどうかはわからないけれども、少なくとも、当人にとっては人生においてやることがあったと言えるだろう。人間行動のこの最大の動機は、人生の退屈さを紛らわす効用が大いにあると言えよう。